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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ19 ~知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!?「クレオパトラ」を簡単おさらい~

今日は古代のロマンに迫ります^^ 「クレオパトラ」です。彼女については、たくさんの書籍や映画があります。ご自身でも色々調べてみてくださいね。↓ちなみにほかのシリーズもよかったらみてね^^↓(クリックで飛びます)

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マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより引用 ※注釈や番号、詳細な画像などはwikipediaにてご確認くださいませ)

クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπάτρα Ζ’ Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 – 紀元前30年8月12日[2])は、古代エジプト、プトレマイオス朝のファラオ(女王)。普通クレオパトラと言えば彼女を指し、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる[3]。プトレマイオス朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である[4]。

「クレオパトラ」は、古代ギリシア語クレオパトロス(父の栄光)の女性形である。「絶世の美女」として知られる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。

なお、アレクサンドリアを襲ったクレタ地震 (365年)のため、当時の史料は残っておらず、プルタルコスやスエトニウスら後世の歴史家による記録に負うが、その正確性には疑問が残る[3]。

出自

紀元前32年頃鋳造された銀貨。左がクレオパトラ、右が裏面のアントニウス
父は紀元前80年 – 紀元前58年および紀元前55年 – 紀元前51年のファラオであるプトレマイオス12世(アウレテス)。

プトレマイオス朝末期の王家の系図に不備があるため母は特定できていない。クレオパトラ5世[5]、クレオパトラ6世[6]、あるいは氏名不詳の女性の説がある。クレオパトラ5世はプトレマイオス12世のきょうだいまたはいとこであり、ベレニケ4世を産んだことは分かっているが、クレオパトラが生まれた紀元前69年頃以降の記録がない。クレオパトラ6世は紀元前58年にプトレマイオス12世がエジプトから追放された後にエジプトを統治した人物であるが、5世と同一人物とする説と5世の長女とする説がある。ストラボンはプトレマイオス12世の娘をベレニケ4世、クレオパトラ7世、アルシノエ4世としており[7]、前説の場合これと一致する。後説はポルピュリオスの記述によるもので[8]、この場合プトレマイオス12世の追放に関連したため系図から抹消されたと考えられる。他の人物として、歴史家ヴェルナー・フスは、紀元前69年頃にプトレマイオス12世はクレオパトラ5世と離婚してメンフィスの有力な家系の女性と結婚しており、この女性がクレオパトラ7世の母としている[9]。

弟にプトレマイオス13世、プトレマイオス14世がおり、何れもクレオパトラと結婚して共同統治を行っている。

生涯
即位までのエジプトの状況
共和政ローマはエジプト産の穀物を必要としており、セレウコス朝シリアの攻撃を受けたプトレマイオス6世がローマに助けを求めて以降、プトレマイオス朝はその影響下に入っていた[10]。エジプトは当時有数の小麦生産地であり、その販売をプトレマイオス朝が独占していた。後のアウグストゥス時代には、毎年ローマ市の4ヶ月分を賄っていたという。更にはパピルス、ガラス、織物生産地でもあった。これらのことから、プトレマイオス朝は当時世界でも最も裕福であったと予想する学者もいる[11]。

プトレマイオス11世は、紀元前80年にルキウス・コルネリウス・スッラによって玉座に上ったものの同年中に民衆に殺害され、11世の従兄弟でクレオパトラの父であるプトレマイオス12世がローマに無断で即位した。12世は地位の安定のためグナエウス・ポンペイウスを頼ったが、直接介入を渋られたため、紀元前60年に三頭政治が始まると、その一角であるカエサルを買収し、やっと正式に王位が認められた。しかしこの買収にかかった費用を増税でまかなったため、紀元前58年に反乱が起こり、ポンペイウスを頼ってローマ市へ亡命した[12]。このとき娘の一人を伴ったとされ要出典、その場合クレオパトラである可能性を主張する近年の研究者がいる[13]。(アテネで発見された石碑に刻まれた”Liviaの王女”についての文面があり、それが若きクレオパトラである可能性を主張するもの。)

アレクサンドリアではクレオパトラ6世やその死後ベレニケ4世が摂政の座についたが、紀元前57年、ローマで12世の復位計画が立てられた。これをポンペイウス派が行う陰謀もあったものの頓挫し、結局紀元前55年、シリア属州担当プロコンスル(前執政官)[14]アウルス・ガビニウスと共にアレクサンドリアに舞い戻った12世は、ベレニケ4世を処刑し復位した。しかしながら、亡命中の生活費と政界工作費で莫大な借金を背負うことになった[15]。この戦いに参加した、若きマルクス・アントニウスはベレニケ4世の夫であるアルケラウスの戦死の際に、王に相応しい葬いをしたとして評価された。この時期に、クレオパトラとアントニウスは出会っているという説もある。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ『アントニウスとクレオパトラの出会い』(1740年代)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)
即位
紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が逝去すると、父の遺言によって弟のプトレマイオス13世と共同で王位に就いた[16]。

プトレマイオス朝はギリシア系であったが、紀元前217年のラフィアの戦い以降、エジプト人の存在感が増し、ギリシア人のエジプト化が進んでいた。一方、歴代王は統治に無関心で、エジプト人による反乱も起っていた。クレオパトラはエジプト人との宥和のため、自らエジプト文化を取り込もうとしていたとも考えられている[17]。プルタルコスによれば、彼女の声は甘く楽器のようで、多数の言語を自在に操り、これまでの王たちとは違ってエジプト語も習得していたという[18]。クレオパトラは古くから民衆に親しまれていたイシスと同一視して描かれることもあり、そのことからも、宥和政策を採っていたことが推測される。プトレマイオス2世の妻アルシノエ2世がイシスとして描かれていた前例があり、それを再現したのではないかとも考えられている[19]。

ローマ内戦
「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」も参照
紀元前49年3月3日、キケロよりアッティクスへ

先日の君の手紙からすると、まだ彼らが会談して和解する可能性を信じているようだね。しかしその可能性は低いと思う。もし会談があったとしても、ポンペイウスがなんらかの協定を結ぶとは思えないんだよ。
—キケロ『アッティクス宛書簡』8.15.3[20]
この頃にはカエサルとポンペイウスの対立は避けられないものになっていた。紀元前49年1月1日にカエサルがその軍団を解散しなければ追放処分にすることが元老院で決議されていたが、カエサルはこれを無視して軍を率いてルビコン川を渡った。ポンペイウスはローマ市を捨て、さらに両執政官と共にギリシアへと渡っていった[21]。アッピアノスによれば、レバント(東部地中海沿岸地方)のほぼ全ての国がポンペイウスを支援し、中には王自ら参戦する国もあったという。クレオパトラも60隻の船を供出したが、戦闘には参加しなかった[22]。ポンペイウスはデュッラキウムに本陣を据えて軍勢を集め、一方のカエサルはヒスパニアのポンペイウス派を潰して回り、ローマ市へ帰還すると翌年の執政官に選出された[23]。

カエサルはポンペイウスに攻撃を仕掛けたが一時敗退し(デュッラキウムの戦い)、それをポンペイウスが追撃したもののカエサルに撃退され(ファルサルスの戦い)、海へと逃れた[24]。

同じ頃クレオパトラは、妹アルシノエ4世とも対立していただけでなく、共同統治を嫌ったプトレマイオス13世によって紀元前48年にアレクサンドリアから追放された[6]。アッピアノスによれば、追放されたクレオパトラはシリアで軍勢を集め、対する13世はペルシウム付近で彼女を待ち受けていたが、そこへポンペイウスが逃れてきたという[25]。

ポンペイウスを追撃するカエサルはアレクサンドリアを訪れ、エジプト人を信用していなかった彼は、追放されていたクレオパトラを召喚した。カエサルは52才、クレオパトラは21才であった[26]。

カエサルとの出会い

絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ
“Cléopâtre et César” ジャン=レオン・ジェローム画、1886年
プルタルコスによると、カエサルに召喚された女王は[27]、シチリア人のアポロドロスという者と夜陰に乗じて忍び込み、寝具袋に入った彼女を友人に縛らせ、カエサルの元に運ばせたといい、この大胆なクレオパトラに魅せられたカエサルは、きょうだいであるプトレマイオス13世との仲を取り持ったという[28]。寝具ではなく絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多い(古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があり、クレオパトラは宝物ではなく自らの身体を贈ったのだとする)が、史料では確認できない。

しかし、クレオパトラがカエサルの愛人となったことを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。結局カエサルはローマに敵対するプトレマイオス13世を攻め殺し、アルシノエ4世を捕らえることに成功した[6]。クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治という形で復位したが、実質は彼女一人による統治で、紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んでいる[29]。クレオパトラは、カエサリオンを産むことでローマによるプトレマイオス朝の属州化防止や、自己の地位安定を計ったのではないかとも考えられる[30]。

紀元前46年7月、カエサルはローマ市へ戻り、凱旋式を4度にわたって挙行した。この頃完成したカエサルのフォルムにはクレオパトラの黄金像が立てられたが、これはウェヌス神殿のすぐ側であり、問題視された。クレオパトラは、プトレマイオス14世とカエサリオンと共にカエサルのティベリス川沿いの別荘に滞在し、カエサルとのスキャンダルが噂された。この間キケロらローマの有力者と面会したようである。

紀元前44年6月13日、キケロよりアッティクスへ

カエサルの別荘にいた時の女王の傲慢さときたら、思い出したくもない。だから私はもう一切関わりたくない。
—キケロ『アッティクス宛書簡』15.15[31]
カエサル死後
カエサルは紀元前47年に独裁官任期を10年延長され[32]、さらに紀元前44年2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日に暗殺された。クレオパトラの希望とは裏腹に、カエサリオンは彼の後継者とはなりえず、カエサルは実の大甥(カエサルの妹の孫で姪の子)で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(オクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者と定めていた。クレオパトラは帰国したが、すぐにプトレマイオス14世が逝去した。彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。

紀元前42年のフィリッピの戦いでは、第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる[33]。エフェソスにいたアルシノエ4世は紀元前41年にアントニウスによって殺された。

アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、クレオパトラと結婚した。紀元前39年には双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオス(英語版)とクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)が誕生している。アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスはローマでの評判を落とす一方だった[34]。アントニウスの場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由が考えられるが、今回はプトレマイオス朝の領土をも獲得している[35]。

アントニウスは紀元前36年にクレオパトラの支援を得てパルティア遠征を行ったが、惨敗を喫した。

アントニウスは紀元前34年に執政官に選出されたが初日に辞任し、アルメニア王国(アルタクシアス朝)に復讐するためニコポリスに現れると、国王アルタウァスデス2世を騙して捕虜とした。アルメニアを占領したアントニウスは大量の財宝と捕虜と共にアレクサンドリアに凱旋し、クレオパトラとの間の子らに、東方世界を分割して与えることを約束した[36]。

プルタルコスによれば、アントニウスがローマ市民に人気のあったオクタウィアを離縁したこと、あまりにもエジプト風に染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダに利用され、クレオパトラはローマの敵に仕立て上げられていったという[37]。クレオパトラはカエサリオンをカエサルの後継者として宣伝し、アントニウスもその保護者としての立場を強調していた。それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立が決定的になると、後継者は自分であることを強調し、執政官としてクレオパトラという外敵を排除する立場を明確にしたといい[38]、同時代の記録では、豊かなエジプトの女王の脅威に立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという[39]。

(以上、wikipediaより引用、一部削除。詳細図、かっこ付きの番号など、詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)なお、著作権には十分に気を付けておりますが、お気づきの点がございましたら、誠にお手数おかけいたしますが、弊社までご連絡くださいますよう、お願い申し上げます。


 

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