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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ22 ~知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!?「沢村栄治」を簡単おさらい~

今日は三重県伊勢市(当時の宇治山田市)生まれの 「沢村 栄治」です。2回の渡米をへて、伝説的な活躍を見せたプロ野球選手です。27歳で戦死した彼についても、たくさんの書籍があります。ご自身でもgoogleなどで色々調べてみてくださいね。↓ちなみにほかのシリーズもよかったらみてね^^↓(クリックで飛びます)

 

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そもそも、なぜ雑学が重要なのか?↓(シリーズを一貫してのメッセージです。すでに読んだ方はすぐ下へどうぞ)

マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより引用 ※注釈や番号、詳細な画像などはwikipediaにてご確認くださいませ)

沢村栄治ページ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沢村 栄治(澤村 榮治)
沢村栄治(1940年から1943年の間に撮影)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県宇治山田市(現:伊勢市)
生年月日 1917年2月1日
没年月日 1944年12月2日(27歳没)
身長
体重 174 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1934年
初出場 1936年7月1日
最終出場 1943年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
京都商業学校(中退)
大日本東京野球倶楽部
東京巨人軍
(1934 – 1937, 1940 – 1941, 1943)
野球殿堂(日本)
選出年 1959年
選出方法 特別表彰沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年〈大正6年〉2月1日 – 1944年〈昭和19年〉12月2日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。日本プロ野球黎明期において伝説的な活躍をした不滅の大投手。1934年の日米野球では持ち前の快速球でベーブルースやルー・ゲーリックらメジャーリーグ選抜を手玉に取ったほか、二度の渡米遠征で活躍するなど、”スクールボーイ・サワムラ”として野球の本場アメリカでもその名を馳せた。日本で職業野球が開始されると、巨人の初代エースとなり1936年の初優勝に大きく貢献。1937年春季には史上初の投手5冠[1]に輝き、初代最高殊勲選手(MVP)を受賞した。のち、史上最多タイの3回のノーヒットノーランも達成している。しかし、兵役で肩を痛めて快速球の威力は失われ、三度の応召を経て1944年戦死。戦後の1947年に功績が称えられて巨人の背番号14は初の永久欠番に指定される。また、同年に設立された最も優れた投手に贈られるタイトル「沢村賞」にその名を残している。1959年に野球殿堂入り。経歴
生い立ち
1917年2月1日に三重県宇治山田市(現在の伊勢市)の青果商「小田屋」を営む沢村賢二・みち江夫婦の長男として生まれる[2]。父の賢二も生来の野球好きだったが、沢村も明倫小学校に入学することから野球に興味を示すようになった。4年生で小学校の野球チームの投手になるが、四年生にしてはずいぶん速い球を投げる、として地域では既に有名だったという[3]。5年生でチームのエースになると、明倫小学校は三重県大会で優勝する。京都の岡崎公園で行われた全国大会では3回戦で和歌山小学校に敗れるが、沢村は1試合平均15三振を奪って一躍注目された[4]。甲子園での活躍京都学園高等学校敷地内に建立されている沢村の像の碑文
京都商業学校(現在の京都先端科学大学付属高校)に進学するが、野球部は設立されたばかりで沢村一人に頼るワンマンチームであった。それでも、1933年春の選抜でチームとして甲子園初出場を果たし、いきなり準々決勝まで進む。準々決勝では明石中の楠本保と投げ合うが、1-2で敗れた。翌1934年は春・夏連続で甲子園に出場する。春は2回戦で明石中学と再戦し中田武雄と投げ合うが、1-2とまたも惜敗を喫した。夏の京津大会の京都予選準々決勝となる京都一工戦では27アウト中で23個もの三振を奪った。この試合では「ボールを当てた音だけでも聞かせてくれ」と相手チームの応援席から声が飛び、六回に打たれた初の内野ゴロに歓声が上がったという[5]。夏の甲子園では、藤村富美男を擁する呉港中と並んで優勝候補に挙げられるが、1回戦で鳥取一中に対して10三振・外野フライ0個に抑え込むも[6]、序盤の不調を突かれ1-3で敗れる。鳥取一中は沢村攻略のため、打撃練習では投手が通常より1メートル手前から投げたとされる[7]。また、同年秋に藤井寺球場で行われた市岡中との定期戦では、9回までに25三振を奪い、さらに延長16回日没コールドまでに36三振という記録を残している[4]。

当時、沢村は慶應義塾体育会野球部の監督であった腰本寿から指導を受けて、右打ちから左打ちに転向している。腰本は沢村の打力に目を付け、将来慶応の四番を打たせるつもりであり、沢村自身も慶應義塾大学への進学を望んでいた[6]。

全日本選抜としてメジャーリーガーと対決

草薙球場前に建立されている沢村の像
1934年11月に読売新聞社主催で日米野球が開催されることになり、メジャーリーグ選抜と対戦するための日本選抜チーム(正式名称は全日本代表野球チーム)が編成される。早稲田大学OBの三原脩・中島治康、法政大学OBの苅田久徳らかつて大学野球で活躍したメンバーが軒並み参加する中で、沢村はヴィクトル・スタルヒンとともに中等野球界からメンバーに選ばれる。日本選抜の編成を担当した読売新聞運動部長の市岡忠男(のちに大日本東京野球倶楽部専務取締役)は沢村の全日本選抜入りに際して、京都商業の校舎と隣り合う等持院の住職である栂道節の仲介を得て、京都商業の校長・辻本光楠と交渉するが、渡米経験のある辻本は沢村の全日本入りを快諾。市岡は沢村を指導していた腰本の了解も得て、沢村は支度金300円・月給120円で全日本入りが決まった[8]。

なお、夏の甲子園大会終了後に沢村は京都商業を中退しているが(現在の高校3年生に相当する年齢)、その理由は、野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったため[要出典]、あるいは、学生野球とプロ野球との対戦を禁じる野球統制令により、学生の身分では日米野球に参加できなかったためともされる[9]。

選抜チームでは、法政大学OBの捕手・倉信雄が試しに沢村に3球全力投球させてみた際、低いと思ってミットを下に出すと、投球がホップして肩口の上を抜けていってしまい、全てパスボールしてしまう。さらに、最初のレギュラー・バッティングでは、二出川・苅田・水原・山下・中島・久慈・三原・井野川・伊達といった並み居る大学野球出身のスタープレーヤたちを9者連続三振に打ち取ったという[10]。

大会では5試合に登板(4先発)する。11月10日の第5戦(神宮球場)では先発するも12安打を浴び0-10で敗れる[11]。しかし、11月20日の草薙球場で開催された第9戦で再び先発すると、6回まで2安打7三振の無失点に抑える。7回裏にルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴び0対1で敗れるが、メジャーリーグ選抜チームに対して8回で9三振を奪い、5安打1失点と好投した。試合後、全米の監督であったコニー・マックから「沢村をアメリカによこせ。18歳の彼を2,3年みっちりとファームで仕込んだらきっとメジャーで使える」と賞賛された[12]。さらにコニー・マックから渡米の打診も受けるが、沢村は「行ってみたいが、こわいわ」と語っていた[13]。また、この試合に随行していたスチュアート・ベルという記者は、すぐにアメリカへ向けて沢村のすごさを書き送ったことから、アメリカ中で沢村の名前は「スクールボーイ・サワムラ」として尊称されるようになったという[14]。もっとも、この試合でベーブ・ルースは、沢村を賞賛する一方で、「丁度バッターボックスに入って投手に面すると太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」[15]とコメントしている。一方で、この試合のメジャーリーグ選抜の先発、アール・ホワイトヒル(英語版)は左腕であり球の出所が沢村と違うため参考程度にしかならないが、9回3安打完封だった。また、全米エースのレフティ・ゴメスは「沢村の球速変化のないカーブでは、どんなに鋭く曲がってもメジャーの打者には打たれる。直球の方がよい、あのスピードで浮いてくるとちょっと打てない。だからベーブはみなにカーブを狙わせた」と評している[16]。

次に、11月28日の第16戦(京都市設球場)に先発するが、沢村の投球の癖(カーブを投げる際に口を歪める)が研究されていたこともあって8点を失ってノックアウトされる[17]。また、12月1日の最終第18戦でも先発するが、4回9失点と全く通用しなかった[18]。結局、沢村は草薙球場の第9戦以外の4試合では0勝3敗・防御率10.65(20回2/3で33失点・24自責点)と全く振るわず、通算でも0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点)に終わっている[19]。それでも、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったこともあり、草薙球場での沢村の快投は現在でも日本で語り草となっている。

職業野球への参加
その年の暮れ、全日本チームを基礎とした職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現在の読売ジャイアンツ)が結成される(正式な設立は12月26日)。早速、読売新聞社の正力松太郎から入団の勧誘を受ける。正力は「一生面倒をみる」とまで言ったという。沢村自身はのちに鈴木惣太郎に「わしは慶応が好きやで慶応に行くはずだったのや」と語っているように[20]、慶応への進学を希望していたが、裕福でない家庭の事情に配慮して「進学、職業野球、どちらでもよい」と返事をする。当初、父の賢二は慶応の腰本への恩義や野球を職業とすることの不安から入団に否定的であったが、次第に正力の熱意にほだされて職業野球入りを勧めるようになり、沢村の入団が決まった。職業野球に入って、中学出としては相当に高額の百数十円の給料をもらえることになったが、沢村は「とにかくこのお金で弟たちを上の学校にやってくれ」と手紙を添えて、給料の2/3以上を実家に送金する。これによって、沢村の実家は人並み以上の生活ができるようになった[14]。

のちに、沢村は2度も応召を受けることになるが、これについて学歴が中学校中退であったからという説をとれば、中学校を中退しての職業野球入りは沢村のその後の運命を左右してしまったと言える。戦後のインタビューで、賢二は「栄治は中学校中退だから。もし、卒業していたら、慶大に行っていたら、こんなに何度も(召集が)こなかった。すべては私のせいです。」と涙ながらに繰り返した[21]。

巨人の初代エース

京都学園高等学校敷地内に建立されている沢村の像
1935年2月から7月にかけての大日本東京野球倶楽部(アメリカへの到着時に東京ジャイアンツに改名)の第一次アメリカ遠征に参加。当初は70試合程度を予定していたが、アメリカでの沢村の人気もあって、計画は110試合に拡大した[22]。当時AA(現在のAAA)パシフィックコーストリーグの8球団のほか、アメリカ・カナダ・メキシコ・ハワイを回ってノンプロ・大学・在留邦人のチームと対戦。ジャイアンツはコーストリーグの8球団から挙げた7勝のうち、5勝は沢村の力投によるものであった[23]。そのほか、遠征全体で沢村は21勝8敗1分、313奪三振の戦績を残す。この遠征では、当時未だマイナー(サンフランシスコ・シールズ)にいたジョー・ディマジオとも対戦するが、三振を奪うどころか物凄い本塁打を打たれてしまったという[24]。遠征中に対戦したポートランド・ビーバーズのビジネスマネジャーであるローイ・マック(コニー・マックの次男)からは、沢村本人の希望があればチームで預かってぜひアメリカで大成させたいとの希望が伝えられた[25]。また、遠征の途中のミルウォーキーでは、あるアメリカ人が書類を差し出してきたので、サインを求められたと考えた沢村は気軽にサインするが、実はそのアメリカ人はセントルイス・カージナルスのスカウトで、書類は契約書だったという逸話もある[26]。

同年9月から11月にかけての巨人の国内巡業にも参加。この間、小倉で大連実業と対戦した際に大連のエース谷口五郎から指導を受ける。この指導は沢村の投球に大きな影響を与え、沢村も谷口のことを恩師の一人に数えていた[27]。また、11月3日の藤本定義監督率いる全大宮戦では、5回裏に3安打2四球と乱れて2点を失うなど、1-4で巡業で唯一の敗戦を喫している[28]。巡業通算では、22勝1敗、158回で187三振を奪った。また、打撃でも打率.301を残した[29]。

翌1936年2月から5月にかけての第二次アメリカ遠征では前回ほど調子が上がらず、11勝11敗、防御率4.97に終わった[30]。

職業野球リーグが開始された1936年の夏季リーグより巨人が参戦するが、チームは2勝5敗と苦戦し、沢村も1勝1敗の平凡な成績に終わる。この頃、アメリカ遠征で投手が大切にされるのを見てきた沢村を始めとした投手陣は、監督の藤本定義に反抗的な態度を取っていた。練習にも身を入れず、試合で負けてもヘラヘラし、夜は宴会ばかりの有様だった。特に沢村に関しては、信頼していた初代監督の三宅大輔が内紛によりチームを去っていたことも原因の一つであったらしい[31]。ここで、巨人立て直しのための茂林寺の特訓が行われる。当初、野手陣が猛練習するのを横目に投手陣はのんびり練習見物をしていたが、新人の白石敏男が猛特訓に耐えて死に物狂いで練習するする姿を見て、投手陣も心を入れ替えて練習に励むようになった。目が覚めるのが一番早かったのは沢村で、目の色を変えて練習に打ち込むようになり、練習相手だった捕手の中山武によると、特訓の打ち上げの頃には完全に全盛期の水準までコンディションが回復していたという[32]。

秋季リーグでは、9月25日の対大阪タイガース戦で中山武とのバッテリーでプロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。タイガース側からノーヒットだけは恥ずかしいから、と何度も言われた中山は、6回頃から景浦将や小島利男らタイガースの打者に、「今度はストレート」「今度はドロップ」と球種を教えたが、それでも打てなかったという[33]。シーズンでは13勝(2敗)防御率1.04(リーグ2位)で最多勝利のタイトルを獲得。同年12月の大阪タイガースとの優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。2010年代になって、この試合を記録した2分程度の動画フィルムが神奈川県で発見され、NHKによる画像修正作業を経て2015年6月11日のNHK総合「クローズアップ現代」で放送された。沢村の投球動画としては唯一のものとなっている。この頃、誰かがピストルの弾丸と沢村の投球の速さを比較して新聞に発表したため、沢村の球はピストルよりも速いなどと言われていた[34]。

翌1937年春季リーグでは、5月1日の対大阪タイガース戦で二度目のノーヒットノーランを記録。この試合では、スピードはもちろんのことすばらしい制球力でタイガース打者の弱点を余すところなく突いて抑え込んだ[33]。このシーズンは巨人と大阪が激しい優勝争いを展開。巨人は首位大阪を1.5ゲーム差の2位で追っていたが、6月26日,27日の最後の直接対決で沢村は右目の負傷を押して2試合連続完投勝利を挙げて首位に立つ[35]。巨人はそのまま僅差で逃げ切って0.5ゲーム差で優勝した。沢村はシーズンではチーム勝利(41勝)の半分を上回る24勝(4敗)、防御率0.81の成績を残して最多勝利と最優秀防御率のタイトルを獲得。さらに、7完封、勝率.857、196奪三振もトップでプロ野球史上初となる投手五冠を達成(1980年代に宇佐美徹也が提唱)[1]。巨人の優勝に大きく貢献し、初代MVP(最高殊勲選手)に選出された[36]。

沢村の速球になすすべもなく敗れた大阪は、監督の石本秀一が打撃練習時に通常のプレートより1メートル前から投手に投げさせる沢村対策の猛練習を行う[37]。この対策のためか、秋季リーグで沢村は大阪に0勝4敗と打ち込まれ、シーズンでも9勝(6敗)防御率2.38(リーグ6位)に留まる。また、同年の大阪との優勝決定戦では、沢村は1勝2敗に終わり、巨人は2勝4敗で大阪に優勝を攫われている。この頃、大阪の豪打者であった景浦将とは良きライバルで、名勝負を繰り広げてファンを沸かせた。

二度の応召と職業野球への復帰

沢村(左)と吉原正喜
しかし、徴兵によって甲種合格の現役兵として、1938年1月10日に帝国陸軍歩兵第33連隊(三重県一志郡久居町)に入営する。同年から職業野球選手の中で兵役を逃れるために、私立大学の夜間部に在籍を置く制度ができるようになるが、沢村は1年違いでこの制度を使用することができなかった。入営後まもなく、軽機関銃射手として日中戦争(支那事変)に出征。4月3日に広島を発って、6日には青島に到し、のち武漢作戦や襄東会戦に加わった[38]。中国戦線では、前線では連隊の宣伝材料として手榴弾投げ大会に頻繁に駆り出され、重い手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛める。また戦闘では左手に貫通銃創を負い、さらにマラリアにも感染した。

1939年8月に歩兵第33連隊は内地に帰還。1940年初春には野球好きの賀陽宮恒憲王が第33連隊を検閲のために訪問したが、沢村は賀陽宮から直接「沢村君、肩はどうだ?」と声をかけられている[39]。それから1ヶ月もたたない4月9日に除隊となって宇治山田の実家に戻ると、読売新聞は「沢村帰る」との記事を載せた。沢村は巨人に復帰するが、監督の藤本は沢村のコンディション調整を優先し、春のリーグ戦には起用しようとしなかった。そのため、沢村の投球を見たいと希望するファンの声は高まり、登板を促す投書が読売新聞の紙上にも掲載されるほどであった[33]。6月から始まった夏季リーグからようやく沢村は起用され、6月4日の対南海軍戦で復帰後初登板を完投勝利で飾ると、4回目の登板となった7月6日の対名古屋軍戦で自身3度目のノーヒットノーランを達成する。しかし、復帰後はマラリアの発作による高熱で何度か球場で倒れたり、兵役で右肩を痛めたことで速球が投げられなくなっていた。そこで、抜群の制球力と新しく覚えたシュートなど変化球主体でコーナーを丹念に突く技巧派に転向した。

同年のシーズンでは7勝1敗 防御率2.59、翌1941年は9勝5敗 防御率2.05(リーグ15位)と、両年ともスタルヒン・中尾輝三に次ぐ第三投手であった。当時の巨人のエースは同年に38勝を挙げたスタルヒンであったが、沢村はかつて自分の控え投手であったスタルヒンがエース然として振る舞っていることに我慢できず、主将の水原茂に「ボクはまだまだ彼には負けませんよ。やつより速い球を投げて見せます」と言ったこともあった[40]。一方のスタルヒンはエースになっても沢村に話しかけることはなく、いつも沢村の前では小さくなっており、沢村自身も「スタ公」と呼んでいた[41]。

兵役を通じて往年の力は衰えたが、依然として沢村はチーム内では一目置かれるスター選手であった。1941年の春のキャンプが明石で行われた際、宿舎で選手一同が浴衣姿で記念写真を撮ったが、後列で腕を組んで立つ沢村に近寄り難かったらしく誰も隣に立とうとしなかった(結局、誰にも物怖じしない吉原正喜が立った)[41]。一方で、主力打者だった川上哲治・千葉茂以下、選手皆が沢村に声をかけて欲しいと思っていたという。しかし、全然声はかからず、捕手の吉原正喜や若手投手の多田文久三などをかわいがっていた[42]。球団も沢村を厚遇しており、給料は巨人で最高の270円であった。なお、主将の水原茂は230円、四番打者の川上哲治は210円ほどであった[42]。キャンプの宿舎も相部屋が普通だったところ、沢村のみ二階の個室を割り当てられていた[41]。

1941年5月には、大阪の貿易商の一人娘で沢村の全盛期から熱心なファンであった米井良子[43](または酒井優)[44]と、大阪の大鳥神社で結婚式を挙げる。格式を重んじる米井家の中には、職業野球選手である沢村との結婚に不満を残す者もいたため、参加者も限られるなど貿易会社の令嬢にとっては非常に質素な式であった[45]。

1941年10月に応召により再び歩兵第33連帯隊に戻り、11月15日に名古屋港から出征し、12月12日にフィリピンのミンダナオ島へ到着。この頃から日本は太平洋戦争に突入し、沢村は熱帯雨林の中でアメリカ兵に囲まれたこともあったが、九死に一生を得て帰還した[46]。

1943年1月に沢村は三度巨人に復帰するが、肩と肘の故障でもはやオーバースローで投げることができず、肩への負担が少ないサイドスローに転向した。しかし、既に制球力を大幅に乱していたことで成績を残すことが出来ず、0勝4敗、防御率10.64に終わる。投手としては、7月6日の対阪神戦の出場が最後で、先発数するも3回で8与四死球と2被安打で5失点の乱調で早々に降板となった。公式戦最後の出場は、10月24日の対阪神戦の2-2で迎えた延長11回表に6番・青田昇の代打で登場するが、三邪飛に倒れた[47]。故障による衰えのため戦力にはならなかった一方で、沢村は持ち前の明るい性格で若い選手の兄貴分となり、主将としてチームのまとめ役に回って新人監督の中島治康をよく助けた[48]。

1943年のシーズンが終わると、沢村は妻の実家近くにある川西飛行場の製作工場で職工として働いていた。しかし、1944年1月を過ぎても巨人から次年度の契約の呼び出しが来ないため、上京して巨人の球団事務所を訪ねるが、そこで解雇通告を受ける。その後、産業軍や阪急軍から移籍の話もあり、沢村も一時迷っていたが、鈴木惣太郎から「このまま最後まで巨人の沢村で終わるべき」と諭され現役引退を決める[49]。鈴木は他の仕事を紹介しようとするが、「野球ができないのなら、一生職工でいい」と断った[50]。2月11日に大阪に戻ると、その後、南海軍からも入団の誘いがあったが、固辞している[49]。職業野球の通算成績は63勝22敗、防御率1.74であった。

戦死
巨人退団後も、川西飛行場で働きながら妻の実家で暮らしていた。しかし、工場で稼ぐ給料は安く、妻の実家では婿養子のような立場で辛いものがあった中で、沢村なりの意地で「まだ巨人軍に籍はある」と妻に対しては言い続けていたという[51]。

1944年10月2日に2度目の応召を受け、現役兵時代を含め3度目の軍隊生活に入る。この時は襷も掛けず、見送りもなく、父の賢二のみが付き添って京都の歩兵第9連隊に入営した。沢村は巨人から解雇されてさすがに気落ちしており、賢二に「大投手などと煽てられていい気になっていた、わしがあほやったんや」と語ったが、自分を責めるだけで正力や巨人に対する恨みごとは言わず、入営時には笑顔を見せていた[52]。

同年12月2日にフィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、屋久島沖西方[注釈 1] にて戦死[注釈 2]。特進で任陸軍伍長(墓標などでは特進前の兵長表記)。27歳没。

 

(以上、wikipediaより引用、一部削除。一部順序変更、改変。詳細図、かっこ付きの番号など、詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)なお、著作権には十分に気を付けておりますが、お気づきの点がございましたら、誠にお手数おかけいたしますが、弊社までご連絡くださいますよう、お願い申し上げます。


 

いかがだったでしょうか。現代は比較的平和な時代からは、戦死は想像もつきません。才能に恵まれた彼も、時代に翻弄された想像を絶する厳しい(?)な価値観からは考えられないような内容がとても濃い一生、歴史の変わり目の中心に何度も立ち会ったことでしょう。

もっとお勉強したい方は、wikipediaのほか、色々調べてみてくださいね^^

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