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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ13 ~知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!?「ジョン・レノン」を簡単おさらい~

さて、今日は、音楽ポップス界を作り上げたといっても過言ではない人物、ジョン・レノンです!彼の一生もずいぶん波乱に富んでおります。今日だけではすべてを紹介しきれないので、書籍などご自身でも色々調べてみてくださいね。↓ちなみにほかのシリーズもよかったらみてね^^↓(クリックで飛びます)

 

 

 

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そもそも、なぜ雑学が重要なのか?↓(シリーズを一貫してのメッセージです。すでに読んだ方はすぐ下へどうぞ)

マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより引用 ※注釈や番号、詳細な画像などはwikipediaにてご確認くださいませ)

 

ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 – 1980年12月8日)[注釈 2]は、イギリス出身のシンガーソングライター、ギタリスト、キーボディスト、平和運動家。ビートルズを立ち上げたリーダーでボーカル、ギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した[注釈 3]。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した[注釈 4]。

1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡した。

前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいる。

主な代表曲としては、ビートルズ時代の「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」、リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「イン・マイ・ライフ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「愛こそはすべて」「レボリューション」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」「アクロス・ザ・ユニバース」、また、ソロ時代は「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。

生涯
ビートルズデビュー以前
幼年期
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、アイルランド系の父のアルフレッド・フレディ・レノン(英語版)(1912年 – 1976年)は労働者階級で商船の乗組員[8]として航海中で不在。イングランド人である母のジュリア・スタンリーも他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー(英語版)(1903年 – 1991年)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン[9]、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ[9]。また、スコットランド人の血も引いている[10]。

ジョンの父・アルフレッド(1966年)
ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった[11]。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年、父が帰国し、そのまま父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが母がジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して、行方知らずとなった。

少年時代
ジョンは1952年9月、グラマー・スクールのクオリー・バンク校(英語版)に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ(英語版)(1903年 – 1955年)が1955年に死去した。

ジョン・レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガン(英語版)の「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[12]。さらにジョンは1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。このころ、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。

1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」[注釈 5]を作曲。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。

ポール、ジョージとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会(英語版)で行ったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[注釈 6]。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカのロックンロールに夢中になった。またジョンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている[13]。1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。まもなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。

母の死
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった[注釈 7]。母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。

1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになった。

ハンブルク時代
このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた[14]。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。

1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。[注釈 8]またジョンはこのとき、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。

ビートルズ時代
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年12月、ジョンたちは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[15]、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇した。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。

最初の結婚
シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚[15]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[16]。

長男のジュリアン・レノン
長男・ジュリアン・レノンが1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。ヒッピー文化に影響されたジョンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファロー、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている[17]。

キリスト発言
詳細は「キリスト発言」を参照
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード(英語版)紙のモーリーン・クリーブ(英語版)とのインタビューでジョンは次のような発言をした[18]。

「キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスはまぁイケてたんじゃない?けど弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ。」
この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードやグッズが燃やされた。スペインおよびヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。

「もし”テレビがイエスより人気がある” と言ったなら何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔してるよ。神を否定していないし、反キリストでもなければ、反教会でもない。イエスを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。ただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。ビートルズがイエスより良くて偉大だとは言ってないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。言ったことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今に至る、ってことさ。」
「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」

 

2人目の妻の小野洋子
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止したあと、ジョンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演した。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリー(英語版)で、彼はのちに2人目の妻となる小野洋子に出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあり、ジョンは日本や東洋文化に興味を持ち、禅や空の概念に強い好奇心を寄せていた。これを色濃く反映させた小野洋子のアートに強い興味を示した。洋子の個展に出かけたジョンが見た彼女の現代アート作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届くハシゴが置いてあって、天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、YESとだけ書かれている。Noとかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短いYESだったことに衝撃を受けた、と、ジョンがそれをいたく気に入ったという逸話は有名である。ジョンは、「Noとかの否定的な言葉だったら気に入らなかった。」と後に語っている。

2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間に小野洋子の個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、小野洋子と文通していた。5月、小野洋子への思慕を募らせたジョンは、シンシアに旅行に行くように言って、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアとは7月に離婚申請、11月8日に離婚が成立した。

 

「平和を我等に」を歌うジョン・レノン(1969年)
1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。

結婚後まもなく、ジョンは「ミドルネームのWinstonをOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められなかった。パスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。

彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物ともみなされるようになった。また、左翼団体の国際マルクス主義グループ(英語版)と関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた[19]。1969年以降は、ジョンはヨーコとともにプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのベトナム戦争支持を受け、大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」(ともに1969年)などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を行った。

ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ(英語版)』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心(英語版)』(1970年)、『フライ(英語版)』(1971年)、『無限の大宇宙(英語版)』(1972年)、『空間の感触(英語版)』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。

2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。

ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。

1969年、シングル『平和を我等に』『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。

ビートルズ解散後
1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した『インスタント・カーマ』を発表、『レット・イット・ビー』とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。

1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法(英語版)を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。

1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[20]。このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[注釈 9]。

1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリー(英語版)がバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。

個人秘書のメイ・パン
1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト(英語版)」を提供。ジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、ジョンとヨーコの個人秘書で、愛人となったメイ・パンとともにロサンゼルスのマンションで同棲生活を始め[21]、いわゆる「失われた週末(“Lost Weekend”)」をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。

1974年3月からはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ(英語版)」をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。

同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした(全米6位)。

息子のショーン・レノン
1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの『ヤング・アメリカンズ』(3月発表)でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマー(英語版)と「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。

1976年にリンゴのソロ・アルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。

1979年、ヴァルトハイム国連事務総長から、インドシナ難民救済コンサートにビートルズとしての出演を依頼されるが、趣旨には賛同するが4人で演奏するのは断りたいとして参加を辞退した[22]。

1980年代
約5年間の音楽活動休止を経て、1980年に活動を再開、友人のデヴィッド・ピールのアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ジョンはB-52’s、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムは全世界で500万枚以上セールスを記録、「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米1位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた[注釈 10]。

12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗るマーク・チャップマンに撃たれ、30分後に死亡が宣告された[23][24]。

音楽性の発展
ビートルズ時代
1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。ジョンのこうした作風と、ポールの明るくポジティブな作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。

ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。

ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。ポール作曲の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、ポールの楽天的に聴こえるメロディーに、ジョンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした[25]。

ビートルズ中期には、ドラッグとインド音楽の影響から、幻想的でサイケデリック色の強い作品が増える。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。

1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやジョンを語るときの代名詞ともなった。

後期は単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」のようなブルース・ロックの曲を発表した。

ソロ時代
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。

また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 – 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[26]。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式[27]を踏襲した楽曲構成を行った。

わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている[26]。

編曲・プロデュース
「レット・イット・ビー」でのフィル・スペクターによるアレンジを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターをプロデューサーに起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「ウォール・オブ・サウンド」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた[26]。

ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」はジャック・ダグラス(英語版)、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった[28]。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デヴィッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど)がある[29]。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[30]、大人向けのロックを創造した[31]。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ[32]、分散和音的なアプローチも取り入れている。「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。

また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える[33]。

ポール・マッカートニーとの関係
ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり[注釈 11]、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になったりするなど深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かうなか、1970年代も中ごろになると、ポールが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折ジョンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。

ポールがジョンの家を訪れたある日、テレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。

またジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。またジョンが殺害された1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」[34]と述べている。

他のミュージシャンへの影響
ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる[35]。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。

反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。

ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている[36]。U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はジョンの同名曲にインスパイアされたものである。Nowhere誌の中で、元ポリスのスティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」ほど好きだと述べている。

1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。

日本との関わり
1966年のビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している[37]。

軽井沢
音楽活動休止中の1977年から1979年には、ヨーコ、ショーンと毎夏訪日し、小野家の別荘がある軽井沢を中心に過ごし、東京や京都、箱根などにも足を運んだ(合計約9か月(うち6ヶ月近くが軽井沢))[38]。

軽井沢における、サイクリング姿や、行きつけのベーカリーやカフェや付近の景勝地に立ち寄った様子などは、プライベート写真として多く残されており、なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のプライベート・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった。

古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。ジョン自身、その気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで[39]、滞在中「この辺りに土地を買い、軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという[40]。万平ホテルの旧館2階にも宿泊し、ホテル併設のカフェにはジョン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[注釈 12]。

ジョンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている[注釈 13][41]。

交友関係
日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともにインタビューを受けた加山雄三(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則[42]、訪日時に食事をともにした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京のラジオインタビューを受けている[43]。写真家の篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。 後に訪日時にともにビートルズ全員でインタビューを受けた加山とは遠い親戚であることが判明する。

また、2人で歌舞伎隅田川を観劇し、感涙したという。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[42]。

売り上げ
日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。

(以上、wikipediaより引用、一部削除。詳細図、かっこ付きの番号など、詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)なお、著作権には十分に気を付けておりますが、お気づきの点がございましたら、誠にお手数おかけいたしますが、弊社までご連絡くださいますよう、お願い申し上げます。


 

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