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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ12 ~知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!?「ナポレオン・ボナパルト」を簡単おさらい~

さて、今日は、封建社会を終わらせた人物、ナポレオン・ボナパルトです!彼の一生もずいぶん波乱に富んでおります。今日だけではすべてを紹介しきれないので、書籍などご自身でも色々調べてみてくださいね。↓ちなみにほかのシリーズもよかったらみてね^^↓(クリックで飛びます)

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そもそも、なぜ雑学が重要なのか?↓(シリーズを一貫してのメッセージです。すでに読んだ方はすぐ下へどうぞ)

マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより引用 ※注釈や番号、詳細な画像などはwikipediaにてご確認くださいませ)

 

ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、出生名: ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 – 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 – 1814年、1815年)となった。漢字標記は那波烈翁。

フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げて、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、南大西洋の英領セントヘレナにて没した。

生涯
生い立ち

父・カルロ
1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテ[注釈 1]と母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子ども(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテ[注釈 2][注釈 3]。島を追われてフランスで一生を暮らすと決めて出世しだした1794年頃より、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名し、署名も改めた。

ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ、古い血統貴族であった。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り、16世紀頃に土着した。判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、実質上フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロはやがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄のジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。

ナポレオンは当初、修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校(fr)へ国費で入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。1784年にパリの陸軍士官学校(fr)に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった[注釈 4]。大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。

この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、この頃から指揮官としての才能があったとされるが、実話かどうかは定かではない。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作[注釈 5]などを精読し、無口で友達の少ない少年であった。学校ではコルシカなまり[注釈 6]を馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ(la paille au nez, 藁鼻)とあだ名された。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、のちに秘書官を務めるルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌであった。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。

軍人ナポレオン
1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。

1792年、故郷アジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れているコルシカ島独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下される。軍人ナポレオンと家族はコルシカ島から追放され、船で脱出するという逃避行によってコルシカ島に近い南仏マルセイユに移住した。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄のジョゼフは、クラリー家の娘・ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘・デジレと恋仲となり、婚約する。この頃、ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエールの弟・オーギュスタンの知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。

ポール・バラス
1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。ナポレオンはフランス軍の中でも主に王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、少佐に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害を被っているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。次の次の司令官であったデュゴミエ将軍がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に旅団陸将(少将相当)[注釈 7]に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。

1794年、イタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、革命政府内でロベスピエールがテルミドール9日のクーデタで失脚して処刑されたことで、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンとつながりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために予備役とされてしまった。

しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こった。このときに国民公会軍司令官となったポール・バラスは、トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用した。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶぶどう弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは師団陸将(中将相当)[注釈 8]に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官[注釈 9]の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール(葡萄月)将軍」の異名をとった。月の呼称については「フランス革命暦」参照。

若き英雄

近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着た
1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、恐怖政治の下で処刑されたボアルネ子爵の未亡人でポール・バラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリア帝国の干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国を巻き込んでいく中、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任されたのである。

ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝[注釈 10]。

1797年4月にはオーストリアの帝都ウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。

『ピラミッドの戦い』を描いた絵画(※Wikipediaをご参照ください
オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた[注釈 11]。

1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。シリアのアッコンの砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った[注釈 12]。

フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向を受けたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメール18日のクーデタを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあった。

統領ナポレオン

アントワーヌ=ジャン・グロ『第一統領ボナパルト』
統領政府の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。

まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は、直接フランスからトリノに向かう峠道、地中海沿いリグーリア州の2つの有名な峠道、ジェノヴァ方面の4つが主であったが、これらは既に1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝のあと、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻ってきて、1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であったドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアはリュネヴィルの和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。

ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し、通貨と経済の安定を図った[注釈 13]。

1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった[注釈 14]。

教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している[注釈 15]。また、交通網の整備を精力的に推進した[注釈 16]。

フランス革命以後、敵対関係にあったカトリック教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約(コンコルダート)を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず有能の士を軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。

ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。

さらに、フランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗。前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内外の情勢のなか、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態を推し進めることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。

ハイチ革命
植民地のサン=ドマングでは、ジャコバン派による奴隷制廃止の後にフランス側に戻った黒人の将軍トゥーサン・ルーヴェルチュールがイギリス軍やスペイン軍と戦ってサン=ドマングを回復。さらにはスペイン領サントドミンゴに侵攻してスペイン領の奴隷を解放した後に全イスパニョーラ島を統一し、1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定して支配権を確立していた。ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟のルクレール将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦しながらも騙し討ちでトゥーサンを捕えてフランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月、アメリカ合衆国にルイジアナ植民地を売却した(ルイジアナ買収)。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、1803年11月18日のヴェルティエールの戦いでフランス軍は大敗を喫し、1804年1月1日にジャン=ジャック・デサリーヌが指導するフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した(ハイチ革命)。これは、ナポレオンのフランスにとって最初の大規模な敗北となった。

皇帝ナポレオン

ダヴィッド『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』。皇后となるジョゼフィーヌにナポレオンが自ら冠を授けている。
1804年5月、国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。1804年12月2日には「フランス人民の皇帝」としての戴冠式が行われた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面に様々な衝撃を与えた。この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアを除く欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。この行動には、欧州に自由の革命精神を根付かせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配下に教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる[注釈 17]。

ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。

絶頂期

皇帝時代のナポレオン。近衛連隊長の制服を着用している(画:ダヴィッド)
1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーファーをプロイセンに譲渡するとの約束をした。

1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。もっともナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。

海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦役でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲などが取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受けて翌年に没した。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものだが、完成はナポレオン死後の1836年のことである。

戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。こうしてロシア、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは、兄のジョゼフをナポリ王、弟のルイをオランダ王に就かせ、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位してオーストリア皇帝のみとなり、ドイツ国家群連合として長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。なおナポレオン失脚後にほぼ同じ参加国でオーストリアを議長国としてドイツ連邦が結成された。

並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として大陸封鎖令を出し、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだ。これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。

ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、のちにナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。

1807年2月、アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦い(英語版)は、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ大公国と、ドイツのヴェストファーレン(ウェストファリア)地方を含む地域にヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟のジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。ちなみにスウェーデン王となったベルナドットは、ナポレオンの昔の婚約者であるデジレ・クラリーと結婚している。

ナポレオンの勢力はイギリスとスウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア、ドイツ西南部諸国、ポーランドはフランス帝国の属国に、ドイツ系の残る二大国のオーストリアとプロイセンも従属的な同盟国となった。このころがナポレオンの絶頂期と評される。しかし、軍事費は高くついた。ナポレオンはストラスブールのラビであるダーヴィド・ジンツハイム(英語版、ドイツ語版、フランス語版)を呼んでグラン・サンヘドリン(英語版、フランス語版)を開かせたのである。

(以上、wikipediaより引用。詳細図、かっこ付きの番号など、詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)なお、著作権には十分に気を付けておりますが、お気づきの点がございましたら、誠にお手数おかけいたしますが、弊社までご連絡くださいますよう、お願い申し上げます。


 

いかがだったでしょうか。内容がとても濃い一生、歴史の変わり目の中心に何度も立ち会ったことでしょう。

もっとお勉強したい方は、wikipediaのほか、色々調べてみてくださいね^^

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