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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ3 ~知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!? 「野口英世」をカンタンおさらい~

お勉強熱心な皆様、こんにちは。お勉強の箸休めにどうぞ(^^)今日は野口英世ですよ!小学校時代などは、世界の偉人などを好きな友達がいて、色々教えてくれたこともありましたが、最近はそういうことはありますか?好奇心旺盛な友達は何人いますか?いつまでも好奇心を持ってワクワクした毎日を過ごして行きたいですね^^というわけで、今回から新シリーズです(^^)

 

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そもそも、なぜ雑学が重要なのか?↓(シリーズを一貫してのメッセージです。すでに読んだ方はすぐ下へどうぞ)

マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください。

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより以下引用)

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日[1] – 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。キリスト教信者。

福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がったが、後にその業績の多くが否定された。黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。

年譜

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2019年12月)

野口英世と母シカ
(野口英世記念館蔵)
1876年(明治9年)
11月9日 – 福島県耶麻郡三ッ和村字三城潟(現・猪苗代町)に郵便配達人の父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作(せいさく)と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名した)[注 1]。
1878年(明治11年)4月
清作は1歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う[注 2]。
1883年(明治16年)
三ッ和小学校に入学[注 3]。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される[注 4]。小学校の頃は、左手に大火傷をしていたので、「清ボッコ」と言われていじめられていた[注 5]。
1889年(明治22年)4月
猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する[注 6]。
1892年(明治25年)10月
左手の障害を嘆く清作の作文が小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、清作の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。清作はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなった。
1893年(明治26年)
3月 – 清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。細菌学を知ったのもこの頃であったという。1896年8月に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う[4]。
1896年(明治29年)
9月 – 野口は小林らから40円(現在価格約80万)もの大金を借りて上京し、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学では合格不可能であったため、医術開業試験予備校の済生学舎(日本医科大学の前身)へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功し[注 7]、済生学舎に通うことが可能となった。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。
1897年(明治30年)
臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学助教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり、10月、後期試験にも合格[注 8]。21歳で医師免許を取得した。医師免許は取得したものの、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から臨床医の道を断念し、基礎医学研究者の道を歩むことを決心する。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。
1898年(明治31年)
10月 – 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める[注 9]。研究に携わることはなかったが、語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。同年8月、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊廓などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意する。郷里の小林に相談した結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた[注 10]。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。
1899年(明治32年)
4月 – 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。
5月 – 伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚した。野口はこの事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。
6月 – 横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見・診断した。
10月 – 検疫官補の仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受けて残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得ることはできなかった。
1900年(明治33年)
6月 – 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。
7月 – 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否される。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻る。
12月5日 – 箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航[注 11]。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、同大学の理事であり野口の指導に当たっていたサイラス・ミッチェル(英語版)からも評価された[注 12]。
1901年(明治34年)
ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。
キューバの眼科医カルロス・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード(英語版)大佐が人体実験により黄熱が蚊により伝染することを突き止める。また黄熱患者の血清を細菌濾過器に通過させることにより、黄熱病病原体が血液中にあり、それが濾過性のウイルスであることを証明する(野口は後年の南米での黄熱研究でこの証明を受け入れていない)。
1903年(明治36年)
10月 – フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続け、トーバル・マッセン(英語版)との連名でいくつかの論文を執筆する。
1904年(明治37年)
10月 – アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。
1905年(明治38年)
血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。
1911年(明治44年)
8月 – 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる(ただし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功した者がいない。試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)[注 13]。京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を授与される[9]。
「京都大学の人物一覧#博士号取得者」を参照
4月10日 – 34歳で、同じ年のアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。
1913年(大正2年)
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織において確認し、この病気と梅毒との関連を明らかにした。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。
1914年(大正3年)
4月 ‐ 東京大学より理学博士の学位を授与される[10]。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。
この年に撮影されたと思われるオートクローム技術を使用した野口の写真が残っているが、これが日本人を写した初のカラー写真と考えられている[11]。
1915年(大正4年)
9月5日 – 英世は年老いた母との再会を果たすため、15年振りに日本に帰国する。帝国学士院より恩賜賞を授けられる[12]。また、この際にワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉・井戸泰の研究および伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察している。この帰国の時、恩師の小林栄と血脇守之助、古くからの親友の八子弥壽平には懐中時計を贈っている。10月には、母、小林栄と共に、講演旅行をし、三重、大阪、京都などを見物する。11月4日に日本を離れる。以後、英世は日本に帰国していない。2度目のノーベル医学賞候補となった。
1918年(大正7年)
6月 – 野口はロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。その頃に開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。野口に黄熱の臨床経験はなかったが、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後(日数については諸説あり)には病原体を特定することに成功し、これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。この細菌をもとに野口ワクチンを開発した(ただし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。後年アフリカの研究で野口は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている)。この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。この年、英世の母のシカがスペインかぜにより11月10日に65歳で死去している。
1919年(大正8年)
12月 – 黄熱病の研究と撲滅のための医師団としてロックフェラー医学研究所からメキシコへ派遣。
1920年(大正9年)
4月 – ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。この年、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がった。
1923年(大正12年)
7月 – 英世の父・佐代助が72歳で死去した。
11月 – 日本の帝国学士院会員となる。
ジャマイカのキングストン「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行う。ここでキューバの研究医アグラモンテから黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うのみではないかと指摘を受ける。会議後アグラモンテを招き、自らの研究結果を見せて説得を試みる。
1924年(大正13年)
7月 – アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生。イギリス、フランスの研究施設より野口ワクチンが効果を見せずイクテロイデスが発見されない旨の報告を受ける。ロックフェラー国際衛生局がナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置し、野口の部下であるイギリス出身の医学者エイドリアン・ストークス博士を派遣するも同様の研究結果となる。
1926年(大正15年)
ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることは1885年にペルーの医学生、ダニエル・アルシデス・カリオンが証明していたが、アメリカの学会の一部で否定されていた。これを病原であるバルトネージャ菌分離と猿による実験で証明し、論争に終止符を打つ。
南アフリカ出身の医学者マックス・タイラー[注 14] らが、黄熱ウイルスの単離に成功。黄熱病についての野口説(イクテロイデスが病原であること)を反証する。
1927年(昭和2年)
トラコーマ病原体を発表する(ただし、後年クラミジアが発見され否定される)。
ロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で9月に死去した。
10月23日 – アフリカへ黄熱病研究のため出張。
11月16日 – 英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない野口に対し、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部からは病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。
12月26日 – ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け、血液を採取に行く。
1928年(昭和3年)
1月2日 – 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し、入院(ただし、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられる)。
1月7日 – 回復し退院、研究を再開する。
3月末、フレクスナー宛にイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出す。秘書への手紙に濾過性微生物(ウイルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定。
4月 – フレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、5月19日にアクラを発つと打電。
5月11日 – ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調が悪化する。
5月13日 – 黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、野口は(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度罹患したのを不可思議に思いながら)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。
5月16日 – 回復し、空腹を訴える程食欲も戻る。その旨はフレクスナーにも打電される。
5月18日 – 病状が再度悪化。
5月21日 – 昼頃、病室で死去。享年53(満51歳没)。野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ黄熱病を発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)。
6月15日 – アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。ロックフェラー研究所は、野口を「古今を通じて最大の細菌学者の1人」と称賛して、哀悼の意を表した[13]。
名誉称号授与歴
1907年(明治40年) – ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) – エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) – サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) – ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) – パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) – 勲三等(スペインの旗 スペイン)、勲三等(デンマークの旗 デンマーク)
1914年(大正3年) – 勲三等(スウェーデンの旗 スウェーデン)
1915年(大正4年) – 勲四等旭日小綬章(日本の旗 日本)
1920年(大正9年) – ジョン・スコット・メダル名誉章(アメリカ合衆国の旗 米国 フィラデルフィア)
1924年(大正13年) – レジオンドヌール勲章(フランスの旗 フランス)
1925年(大正15年)12月15日 – 正五位(日本の旗 日本)[14]
同年 – コーベル賞牌
1928年(昭和3年) – 勲二等旭日重光章(日本の旗 日本)、防疫功労金牌(フランスの旗 フランス)
研究スタイル
研究スタイルは膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。何百の試験管を用いて数千のスライドを作るといった、気の遠くなるような実験パターンを実行してデータ収集を行った[15]。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は野口本人も少なからず気にしていたようで、1920年に若手の細菌学者に「俺等の様な古い学者は、世の中には要らなくなったのだ」と語り、近代化学の方法を覚えるように指摘している[16]。1919年春、訪米した知人の医師・畑嘉聞に「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしている[17]。野口は生涯で204編という多数の論文を発表した[18]。うち150編は単名で書かれている[19]。

人体実験スキャンダル
1911年と1912年にニューヨーク市のロックフェラー医学研究所において、野口はツベルクリン検査のような梅毒の皮膚検査法の開発を試みていた。被験者はニューヨークの診療所と病院から集められた。この実験において、野口はルエチンと呼ばれる梅毒の抽出物を被験者の上腕皮下に注射した。皮膚反応は病気の進行段階やその処置に応じて梅毒患者と健康な被験者との間で差があり、研究がなされた。571人の被験者のうち315人が梅毒患者であった。残りの被験者は「対照群」であり、彼らは梅毒に感染していない孤児や入院患者であった[20]。入院患者は既にマラリア、ハンセン病、結核、肺炎といった様々な梅毒以外の病気の治療歴があった。対照群の残りは健常者であり、ほとんどは2歳から18歳の子供であった[21][22]。野口と他の医師たちは、この実験について被験者に説明せず、承諾を得ていなかった[23]。当時の批判者(主に生体実験反対運動の人々)は、野口が傷つけられやすい孤児と入院患者の権利を侵害した、と言及した。生体実験反対主義者らの一部には、野口の実験によって子供が梅毒にかかったのではないかとの懸念があった[20][24]。

これは周知のスキャンダルとなり、メディアがこのことについて議論した。『ライフ』誌の編集者は以下のように指摘した。

かの研究者が患者に対して『あなたの身体に、多かれ少なかれ恐ろしい病気と関連した調合物を注射する許可を頂けますでしょうか?』と聞いていたとしたら、病人らは拒否しただろう。

野口を弁護するため、ロックフェラー研究所のビジネスマネージャーであったジェローム・D・グリーン(英語版)は、この実験に抗議していた反生体実験団体に書簡を送った。グリーンは、野口とその同僚研究者は被験者に投与する前に自分自身で抽出物を試験したので、この投与が梅毒を引き起こす可能性はない、と指摘した。しかしながら、野口自身1913年に無治療状態の梅毒と診断され、野口はロックフェラー病院での梅毒治療を断っている。その当時、グリーンの説明は、実験の重要性と研究中に医者が取っていた配慮を証明するものと見なされた。1912年5月、ニューヨーク児童虐待防止協会はニューヨーク地区検事長に野口に対する告発を求めたが、却下された。

アメリカ合衆国において、被験者を保護するための法律が可決され、人体実験に関して十分なコンセンサスの醸成が成されるようになったのは20世紀後半のことであった。そこに至るまでに、インフォームド・コンセントと患者/被験者の権利に関するより多くの手続きが開発された。

業績
存命中に野口の名を高めた学問上の業績は、進行性麻痺患者の脳内に梅毒病原体を発見した事と、いくつかの感染症の病原体特定および培養である[27]。ただし後者の業績は後に否定された。

現在まで残っている野口の業績のうち最大とされるのは、梅毒スピロヘータを麻痺性痴呆患者の脳と脊髄癆患者の脊髄に発見したことである。当時、すでに麻痺性痴呆と脊髄癆は梅毒の末期症状と考えられていたが、証明はなされていなかった[29]。研究者たちは梅毒患者の脳や脊髄から梅毒スピロヘータを見つけ出そうと試みていたが上手くいかなかった[29]。野口は当時の顕微鏡で数千枚にもおよぶ病理組織標本の観察により、菌がいると考えられていた血管まわりではなく繊維の奥深くでスピロヘータを確認し、神経性疾患と感染症との関連を明らかにした。ひとたび脳のどの部分にスピロヘータがいるのかが分かれば、容易に見つけ出せるようになった。また脊髄からもスピロヘータを発見した。

一方で、のちに否定された研究業績として挙げられるのが病原性梅毒スピロヘータの純粋培養[注 13]と黄熱病の研究[注 15]である。急性灰白髄炎(ポリオ、小児麻痺)、狂犬病、黄熱病、トラコーマの病原体発見の業績に関しても、のちにウイルスなどの別の病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、野口の研究時期において、濾過性病原体としてのウイルスの存在はすでに示唆されており、光学顕微鏡下で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったことが考えられる。また、発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備も指摘されている。

野口はまた、ペルー、エクアドル、コロンビアの山間部の風土病であり、サシチョウバエにより媒介されて溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱と、四肢に数センチに達する疣(イボ)ができるペルー疣が同じ病気であることを証明した[35]。科学史家の中山茂は、これを野口の業績のなかで「2番目に大きな業績として認められている」としている。同じ病気の異なる症状であるという説は、1885年ペルーの医学生ダニエル・カリオン(英語版)が、それまでペルーの医師の間で唱えられてきた説を自らの身体を実験体として示し、以後カリオン病(英語版)と呼ばれるようになったものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。野口の業績はカリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論を経た後に野口の成果が正しいとされた。

他の業績として、渡米後すぐに行った、蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関する研究や、血清学的ヘルペドモナド(HERPETOMONADS)とリーシュマニアの分類(1926年サイエンス誌)がある。

前記の通り、野口はノーベル賞に何度も推薦を受けているが、自身は1926年のノーベル医学・生理学賞に、バクテリオファージ研究者であるフェリックス・デレーユを推薦している。

主要な研究年譜
1902年(明治35年)蛇毒の血清学的研究
1911年(明治44年)梅毒スピロヘータの純粋培養(のちに否定[注 17][注 13])
1913年(大正2年)梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見
1913年(大正2年)小児麻痺病原体特定(のちに否定)
1913年(大正2年)狂犬病病原体特定(のちに否定)
1918年(大正7年)エクアドルの黄熱病病原体特定(のちに否定)。翌年にかけてワクチンの開発を行う。
1926年(大正15年)ペルー疣とオロヤ熱が同じ病気の症状であることを証明
1927年(昭和2年)熱帯リーシュマニア症の研究
1927年(昭和2年)トラコーマ病原体特定(のちに否定)

以上、wikipediaより一部引用、抜粋。詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)


 

いかがだったでしょうか。内容がとても濃い一生、歴史の変わり目の中心に何度も立ち会ったことでしょう。

もっとお勉強したい方は、wikipediaのほか、色々調べてみてくださいね^^

 

元CAさんの仰天告白も登場する、ビジネスマナーについてのブログはこちら♪↓

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