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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ9 ~大人の学び直し♪知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!? 「徳川家康」をカンタンおさらい~

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何卒、時節柄のこと、ご理解賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

また皆様におかれましても、くれぐれもご自愛くださいませ。

 

さて、今日は徳川家康です!世界の歴史においても珍しい、比較的安泰の時代を継続できたその所以はいったいなんなのでしょうか。資料を是非確認する習慣を身に着けましょう^^ 彼の一生はずいぶん波乱に富んでおり、今日だけではすべてを紹介しきれないので、書籍などご自身でも色々調べてみてくださいね。

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そもそも、なぜ雑学が重要なのか?↓(シリーズを一貫してのメッセージです。すでに読んだ方はすぐ下へどうぞ)

マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより引用 ※注釈や詳細な画像などはwikipediaにてご確認くださいませ)

 

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名。江戸幕府初代征夷大将軍。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。豊臣秀吉の死後に引き起こした関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣勢力を圧迫しつつ1615年には大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼし、1603年に後陽成天皇に征夷大将軍に任じられ、265年間続く江戸幕府を開いた[3]。三英傑のひとりである。

概要
家系は三河国(現在の愛知県東半部)の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代[3]。通称は次郎三郎、後に蔵人佐。諱は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と名乗るが、今川氏から独立した際に家康と名乗る。

近衛家に系図作成を依頼し、勅許の上、永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は源氏や藤原氏を称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるが、天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している[5]。

幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす[3]。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び[3]、三河国・遠江国に版図を広げる。

信長が天正10年(1582年)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国・信濃国を手中に収める[3]。

信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが[3]、後に秀吉に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる[3]。

秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ、日本全国を支配する体制を確立。安土桃山時代が終結した。

家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され、264年間続いた江戸幕府の祖として「神祖」[6]・「烈祖」[7]などとも称された。

生涯

岡崎城天守

孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』

竹千代時代を過ごした臨済寺 (静岡市)(2016年8月14日撮影)
※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。

生い立ち
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)に岡崎城 にて誕生[1]。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)[1]。幼名は竹千代(たけちよ)[1]。

3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる[注釈 1]。

人質として今川家、織田家へ
天文16年(1547年)8月2日[9]、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない[10]。また、近年の研究[注釈 2]では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している[14]。

2年後に広忠が死去する[注釈 3]。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広[注釈 4]との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府[注釈 5]に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された[注釈 6][注釈 7][注釈 8][注釈 9]。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。

元服・初陣
天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る[注釈 10]。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めている[注釈 11]。

なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については吉良氏との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏御一家の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠は吉良義信、松平清康は吉良持清、松平広忠は吉良持広の偏諱を得たと推定されている。今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏の次期当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる[22]。

当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており(三河忩劇)、永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた。これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付[注釈 12]し、腰刀を贈った[24]。永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条から定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた[25]。

清洲同盟から三河国平定

徳川家の家紋”丸に三つ葉葵(徳川葵)”
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした[26]。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に駐屯し、住職の登誉天室と相談の上、今川方が危険を感じ撤収した後の岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとする[27]。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある[28]。さらに近年の新説として、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒した今川氏真がこれに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されている[29]。

永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしている[30]。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした[注釈 13]。

折しも今川氏の盟友であった武田信玄、北条氏康は、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる[32]。また、桶狭間の戦い直後は三河の今川方をまとめて織田方の侵攻と対峙していた元康が三河への軍事的支援を後回しにして同盟国の武田・北条支援に動く氏真に失望して、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したとする見方もある[29]。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている[32]。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。

永禄4年(1561年)先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)(『史料総覧』巻10)[33]。同年4月西三河で今川氏との戦いが開始された。

永禄5年(1562年)には、家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている[注釈 14][33]。一方、今川氏真の要請を受けた将軍・足利義輝は松平・今川両氏の和睦を図り、義輝から北条氏康らに対しても和睦の仲介を指示しているが、和睦は実現しなかった[35]。

永禄6年(1563年)には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。「家」を選んだ理由は明確ではないが[36]、菊地浩之は於大の方の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し[注釈 15]、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、家光以後に「家」の通字が徳川将軍家として重要になり、由来を隠したとする説を唱えている[37]。ほぼ同じ時期に今川義元に倣った花押の形を変更している。改名以前の花押が「元」の字を変形させたものである以上、花押の変更は当然のことであったとも言えるが、これも今川氏からの決別を示したことと言える[38]。こうした動きが桜井・大草の両松平家をはじめとする親今川派を刺激して、翌年の一斉蜂起につながったとする見方がある[39]。同年3月には、同盟の証として嫡男竹千代(信康)と信長・娘五徳との婚約が結ばれる。

永禄7年(1564年)、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱(遠州忩劇)の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した[注釈 16]。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。

「徳川」への改姓
永禄9年(1566年)、朝廷から藤原氏とされ従五位下三河守に叙任され、直前か同時に「徳川」に改姓した。

これを朝廷に要求する際には多少の工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」であると自称していたが、徳川と事前に改姓していたか、この藤原氏への乗り換えと同時かは不明だが、正親町天皇より「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」と拒否された[41]。そこで家康は三河国出身で京誓願寺住持だった泰翁を介して近衛前久に相談した[42]。

前久の対処により、吉田兼右が万里小路家で先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがもう一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見し写しが譲渡され申請に使用した。この得川の末だと藤原氏を名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)[41]。この先例とされたのは松平氏の祖とされる新田氏庶流の世良田三河守頼氏で、藤原氏となったのは嫡男有氏とその弟教氏で、松平清康の世良田改姓とつなげたとの説がある[43]。この勅許に関連した改姓で当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、松平氏一族や家臣団統制に役立った[44]。この改姓に伴い家康は「本姓」を「藤原氏」としているが、後に源氏に復している(#源氏への「復姓」時期について)。

今川領遠江への侵攻
永禄10年(1567年)5月、長男竹千代(後の、信康)に信長の娘である徳姫と結婚させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。

同年6月に家康は、浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を長男竹千代(後の、信康)に譲った。長男竹千代(後の、信康)は、7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る事に成った。

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)。左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり[注釈 17]、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[45][注釈 18][注釈 20]。

同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった[注釈 21]。

5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。

元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした[注釈 22]。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。

武田氏との戦い
家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保する。信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景・浅井長政・石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。

元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した[注釈 23]。これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍はほぼ単独という形で武田軍と戦うこととなる。

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。
徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広・成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照・青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。(三方ヶ原の戦い)

浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河国設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。

武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。同年、家康は犬居城を攻めるが、城主天野景貫の奇襲により敗退する。同時期、武田に内通していたとして、家臣の大賀弥四郎らを捕え、鋸挽きで処刑した。

信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。

なお、家康は長篠城主の奥平信昌(信昌の諱「信」は従来は信長の「信」をこの時に拝領したものとされていたが、近年は信玄に従属した時に一字拝領を受けた説もある)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる [55]。

天正3年(1575年)、家康は唐人五官(五官は通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除を認める朱印状を発行しており、懸塚湊や上流の馬込川に中国商船が来航して浜松城下にて貿易を行っていたことが知られている。五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人はその後家康に従って江戸に移住したとみられている[56]。天正5年(1577年)2月以降、遅くても翌年4月までに花押を改めている。家康は元服以来、永禄6年の家康改名に伴う全面的な変更(前述)を含めて度々花押の変更を行ってきたが、この時変更された花押が最晩年まで用いられることになる[38]。

天正6年(1578年)、越後上杉氏で急死した上杉謙信の後継者を争う御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入する。謙信の養子である上杉景勝(謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の上杉景虎(謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。

また同じころ、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている[57][58][59](松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。

岩村城の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱えることにもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長を返還するなど織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した。木曾義昌の調略成功をきっかけに、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡した。最後まで抵抗した武田方の蘆田信蕃(依田信蕃)が守る田中城は成瀬正一らの説得により大久保忠世に引き渡された。

家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還している(甲州征伐)。

家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜んだ。

また遅くともこのころには、三河一向一揆の折に出奔した本多正信が、徳川家に正式に帰参している(正式な帰参時期は不明で、姉川の戦いのころに既に帰参していたとも)。

本能寺の変と天正壬午の乱
天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れた。この際、秀吉より援軍要請があった信長は自ら出陣することを決めたが、家康もこれに従い帰国後に軍勢を整えて西国へ出陣する予定だった。

6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返した。

一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3か月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺・一条信龍屋敷に本陣を置いていたが、新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。

ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河の5か国を領有する大大名へとのし上がった。

(以上、wikipediaより引用。かっこ付きの番号など、詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)


 

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