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ビジネスにも役立つ!? 今更聞けない、世界の偉人シリーズ18 ~知っていれば、文化人の前でも恥をかかずにすむ!?「伊能忠敬」を簡単おさらい~

みなさんは、レトロゲームクイズ解けましたか?今日は、測量で日本を描いた、伊能忠敬についてです!書籍や映画などご自身でも色々調べてくださいね。↓ちなみにほかのシリーズもよかったらみてね^^↓(クリックで飛びます)

 

 

 

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マーケティングやロジカルシンキングを身につけ、ついつい嬉しくて、賢くなった気になりがちですが、一人前にお仕事ができるようになってくると、そう、やってくるんですよ。文化人・知識人たちとの出会いが!彼らの前で、最新のマーケティング理論ばかりを披露しても、「へぇー、そうなんですね。」と話が終わってしまうのは、もったいない!

せっかくの出会いを大切にしたい!それなら、そもそもの学びの本質・原点とも言える、文化芸術に興味を持ち始めてみてはいかがでしょうか。文化人・知識人と呼ばれる方々は、文化芸術に明るい方が多く、会話には知性と教養が溢れています。会話についていくために、最低限でもいいので、知識があれば、会話に花も咲きます。そうすれば、新たな境地を開拓できるかもしれませんし、そもそも文化芸術は心の栄養剤。人が人であるための原点かもしれませんね。文化芸術は人間が人間らしくあるための、基本のキとも呼べるのです。仕事ができる以前に人間同士、親しく友好的な関係を作ることのできる潤滑剤となってくれることでしょう。

なお、引用の際などは、著作権には十分に注意しておりますが、何かお気づきの点や気がかりな点などありましたら、お手数ですが、ご連絡ください

 

今日の世界の偉人 (以下、wikipediaより引用 ※注釈や番号、詳細な画像などはwikipediaにてご確認くださいませ)

伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]、延享2年1月11日(1745年2月11日) – 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由かげゆ。字は子斉、号は東河。

寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量して[2][3]『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

1883年(明治16年)、贈正四位。

前半生

伊能忠敬出生の地(千葉県九十九里町)
幼少期
延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった[4]。

6歳のとき母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになった。そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。

小関家での三治郎の生活状況については詳しく分かっていない。当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具が仕舞ってある納屋の番人をしていたと伝えられている[5]。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろばんや、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている[6]。

10歳のとき、三治郎は父の下に引き取られた。神保家は父の兄である宗載むねのりが継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した[7]。

神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない[8]。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている[9]。常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた[10]。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を教わった記録がある[11]。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている[9]。

三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある[12]。

伊能家に婿入り
三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。

ミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった[7]。

伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらもいい仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した[13]。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。

宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた[14]。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした[14]。

佐原時代
当時の佐原と伊能家

伊能忠敬旧宅(香取市佐原)
忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交じった。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている[15]。

当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった[16]。その村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった[17]。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった[18]。

祭礼騒動
忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた[19]。

忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。しかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった[20]。この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている[21]。

明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった[21]。

佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家のある本宿の祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)で、当時は毎年6月に開催されていた。祭りのときは各町が所有する趣向を凝らした山車が引き回される[22][23]。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人は話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしその通達にもかかわらず、各町内はいつものように飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が一番に出すと言い出し、収拾のつかない状態で祭りの当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、「今年は山車を出さない」と決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見という立場にいた永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった[24]。

佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が出したのだからこちらも山車を出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した[24][25]。義絶とはどのような状態なのかは詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをなくすという意味であると推定される[26]。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。とはいえ佐原で「両家」と言われ、富と名声を持っていた2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった[24]。

河岸一件
祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった[25]。

この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された[27][28]。

河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た[28][29]。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった[28][29]。

これを受けて佐原村では再び話し合い、その結果、それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった[30]。

翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「前から問屋をしていたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた[28][31]。

これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった[31]。

ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋をしたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いも減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているので、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った[32]。

そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らとともに出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決をみた。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った[33]。

この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった[31]。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた[34]。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた[35][36]。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居したあとになってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、のちの忠敬の隠居後の行動にもつながることになる[37]。

 

(以上、wikipediaより引用、一部削除。詳細図、かっこ付きの番号など、詳細についてはこちらwikipediaをご覧ください。)なお、著作権には十分に気を付けておりますが、お気づきの点がございましたら、誠にお手数おかけいたしますが、弊社までご連絡くださいますよう、お願い申し上げます。


 

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